人は育ったように活きる / 谷底に落ちても気高い山の頂点まで登る人もいる

昨日の少年の件が頭にチラついては離れ、どんよりしては少年を思い出し、悪人ってなんだろう、悪人じゃなくて病気とかなんだろうな、とかで自分を納得させているけど、もうとにかく「生きる」に落差がありすぎる。これが、現状。もっと目を見開け。http://t.co/AaPQNKUcCh — 土屋アソビ (@wtbw) 2015, 9月 4 ツイッター名、土屋アソビ(@wtbw)さんは2009年1月からフォローさせて頂いている。私は、彼女を天才だと思っている。たまにツイッターからのフォローしている人の記事のお知らせメールが入って来る。今日そんなメールが入ってきたので、気になってリンクをクリックしてみたら、この土屋さんのツイートだった。記事を読み、記事に対するコメントも2,3読んだ。 土屋さんが書いた事に共感した。私は自分の感情的になるところがイヤでイヤで、論理的になりたいと思い、ここ数年間大学で心理学を勉強してきた。心理学だけではなく、学術的な説明だと、人は持って生まれた脳の反応と、母親の胎内まで遡る育った環境、経験と、社会情勢の組み合わせで形成されていく。また、自然界では、確率的に、良い方向にも悪い方向にも突然変異というものが必ず起こる。だから「生きる」に落差がありすぎる。目を見開くと、今まで良いと思っていたことが悪いことだったり、更に視野を広げてよく観てみると、その状況が再度反転したりする。「かわいそう」と思って情けをかけることが人を弱くすることが多い。「かわいそう」と思って情けをかけたことが人を救い、その人がまた多くの人を救うこともある。 誰か社会的な過ちを犯した人の過去に遡れば、いくらでも非難したくなる過ちの根拠となる人、責任となる人がいる。でもその人たちも皆回りに根拠となる人、責任となる人がいる。ある程度誰がどうだったからという真実を知る事は有効だと思う。でも母親は、現時点では法律では裁かれてはいない。祖父母を殺害した罪で裁かれるのは少年だ。この時点で、少年の本当の人生が始まったのだと思う。暗く、寒い谷のどん底に突き落とされた。今見えるのは、這い上がった先にある険しい山だけ。それを登るのか。谷の底でうずくまっていても辛く、這い上がろうとしても、どこか途中で力尽きて落ちてしまう確率の方が高い。過去にはどん底から険しい山の頂上まで這い上がった人たちもいることも忘れてはならないと思う。 私個人の価値観で考えると、少年が這い上がろうと決心したら、それ事体で少年は救われていると思う。自分を本当に救えるのは自分だけ。人生の成功も失敗も真に存在するのは彼の心の中だけ。もしも無罪が言い渡されて、かわいそうにと言われ、衣食住が満たされても、少年はいつまでも母を想い、殺害は仕方が無いことだったと思い続けていたら、彼は人としての幸せを知らないのだと思う。 私の大好きなペンシルバニア州立大学のクレゲノウ物理教授が言った言葉を忘れられない。「宇宙が誕生した時、同時に無数の星が生まれました。そして、私達は何十億光年もの後、その星達と同じ物質を持ってこの世に生まれてきたのです。」 私達は、この小さな地球で生きていながらも、それぞれ異なる文化や価値観を持って生きている。だからこそ、裁かれても、虐げられても、辛くても、自分の価値観を軸に生きていく事が生きる意味だと思う。

迷わず行動する / 人は育ったように活きる

先日、次男のガールフレンドのママと一緒にお昼を過ごした。新宿ハイアットリージェンシーのカフェでランチを食べ、ゆっくりとお話を楽しめた。 私が会社員の頃受けたチームワーク研修で、アウトドアアクティビティ式のWilson Training のPlaying to Winというので、考える事も重要だけれど、間違ってもどんどんチャレンジする重要性を体験するアクティビティがあった、と話したら、GF(ガールフレンドの)ママは会社の若者達に、迷わずどんどん行動してもらいたい、と話していた。 GFママと知り合って、たまに会うようになってから2年以上経った。私は、次男もガールフレンドもまだ飛び切り若いし、いつ別れても別にびっくりはしないつもりだった。ガールフレンドはとびきりステキな人だけど、長年お付き合いすることに期待はしていなかった。でも二人は知り合ってから3年経った今、未だにお付き合いしているし、少なくとも次男が彼女に対する気持ちは衰える様子は無い。 最初は、ガールフレンドの家庭と私達の家庭は全く別世界で、二人は趣味も全く違うから、よく話が合うものだなぁと思っていた。その私の思いが徐々に変わってきたのは、GFママと何度もお会いしてお話をしていて、私とGFママの価値観が似ていると言う事に気が付いてきたから。今回お会した際に、GFママが自分の学生時代や、20代の頃やってきた事を話してくれた。スポーツを真剣にやっていたことや、自分に合った、やりたいことを一生懸命やってきたことが、娘さんに伝授されているんだなぁ、と思った。ああ、だから根本的なところで次男とガールフレンドは共感できているんだと思った。次男も、ガールフレンドも、外見は人目を引くぐらいレベルは高い方で、一緒にいて楽しいタイプだ。それが二人とも、高校を出て語学スクールに入るまで異性にあまり興味も無くて、付き合ったこともなかった。二人とも、同性の友達は大勢いて、楽しんでいた。それぞれ高いところに目標を置いていて、それに共感できないような異性と付き合うのは面倒だと思っていたらしい。何かのきっかけで、お互いと何か有意義な事をしたい、そのために頑張るんだ、というような話ができたとき、こんな人がいたんだ!と思ったという。正しくこの二人が小さい時から私達母親が言い続け、導いて来たことだ。二人とも育ったように活きている。 迷わず行動する。やりたいと思ったら、それに挑戦する。次男もガールフレンドも、それが出来ていると思う。私は?できている事もあるかもしれないけれど、いつのまにか迷うようになっているかもしれない。例えばブログ。何か日本語で書くことを思いついても、英語で書いた方が良いかもしれないと迷っているうちに、書きそびれることが数え切れない程ある。 迷わず行動する。また挑戦してみよう。何度でも。    

百人一首はオペラのアリア

在日アイルランド人のピーター・マクミラン先生は、百人一首を翻訳し、One Hundred Poets, One Poem Eachという本として出版している。この本のカスタマーレビューには、オリジナルの日本語があること、翻訳と説明が美しいことなどが書かれている。 先日マクミラン先生の講演を効き、確かにそうだと思う。でも私は、講演で今まで知りえなかった、感動の百人一首に出会えた。それは、「歌」だ。 マクミラン先生は味のあるテノールの声で、いくつかの伊勢物語のうたを読み上げてくださった。最初の音ではっとした。心が揺さぶられ、涙がこみ上げてきた。百人一首はとてつもなく美しい歌なのだ!今までかるた大会で、百人一首が読み上げられるのを何度も聞いて来た。今まで何も特別に思わなかった。それはそのはずだ。例えば流行りの歌でも、声が美しくない人、音痴の人、心を込めて歌詞を歌わない人の歌を聴いて感動するだろうか?オペラのアリアは、一流の歌手が歌うと言葉の意味が分からなくても感動する。百人一首は、短歌は、外国の詩と比べるのではなく、オペラに比べられるものなのではと思うようになった。 気に入った曲を探すように、ユーチューブで百人一首を検索してみた。かるた大会。声の美しくない人。音楽的な感覚の無い人。本当にがっかりした。 マクミラン先生、今度はオーディションを行い、えりすぐりの歌い手が読む、日本クラシック歌集を作ってくださらないでしょうか?  

オンライン(ウェブ)に存在する個人データ

9年前にブログを書き始めた。このワークライフ・サイトだけではなく、他でも沢山の日本語と英語でエントリーを書いてきた。ウェブに存在する私が作ったデータ。私についてのデータ。文章、写真、ビデオ。アマゾンやマリオット・ホテルのサイトに行くと、私へのお勧めが沢山ある。9年以上のオンライン存在で、誰でも簡単に私の嗜好を知ることができる。 オンラインでは、9年以上前からこの瞬間までの私が同時に存在している。私の意識はここにあるけれど、ウェブでのみ私のことを知らない人にとっては、私はウェブの中にいる。歴史で語り継がれてきた英雄、悪人など有名人のみが経験した自分の体験している「今」以外に長く生きる(残る)ことを、今オンラインで何かをしている人は誰でも経験している。 そんなことを去年辺りから考えるようになったら、周りのオンライン・データに関する研究が目に付くようになった。特にエリザベス・チャーチルから教えてもらったhuman-computer interaction (HCI)の今年のワークショップには興味がある。どのような発展になるか楽しみだ。

職場における影響力の土台:正しいと思っていることをやる

先週多摩大学大学院の紺野先生のゼミで外部講師として参加させて頂き話したテーマについて考えた。 紺野先生の「実践知識経営」プログラムには、ここ数年間年に一度ぐらいのペースで外部講師として参加させて頂いてる。過去私はワークプレイスコンサルタントとしての経験が豊富だったため、知識経営に重要な「場」のテーマの話をしていたが、今年は「職場における影響力 Influencing People」というテーマを頂き、私なりにそれについてお話させて頂いた。実践知というと、私の場合何かを始める際、その事に必要な知識を持って始める事は一度もなかったような気がする。知らないから知りたい、やってみたいという好奇心とチャレンジ精神から全てが始まっている。やりながら知識を得るというスタイルだ。やりたいことに必要な知識は実践の現場と、そこで必要となった知識をそれに携わっている人から話を聞き、本や資料を片っ端から読めば得ることができる。そしてそうしているうちにいつの間にか知識が内面化されていて、独自の観点を持つようになる。そして、更に何かを始める場合、善悪、倫理から入る。これは絶対的な倫理ではなく、その時の自分の考えに基づいた倫理。自分が信じているか信じていないかに関わる。それを影響するのは日本では高校を卒業する前ぐらいまでに経験した何か強烈な経験にある。それが自分の原動力になっていて、それを一生乗り越えようとする思いと行動が、影響力のある人を作り、リーダーを作るのではないか、という事を伝えたかった。 話は1時間弱にしておき、インタラクティブなディスカッションと、それぞれの原動力と影響力を繋ぐためのワークショップに時間をかけさせて頂いた。ただ、その際に伝え切れなかったことは、そこでそれぞれの参加者が発見したこと、思ったことは、あくまでもその時点での観点であり、見方、意味は年齢、経験とともに変わっていくという事だ。 レポート、本、ブログなど、世の中の一般の眼に触れるものを書いていると、そこで書いた事が呪縛になったりする。私の場合ブログを書いていて、書いた時と異なる結論、考えになることは嘘を書いていることではないか、オリジナルを読んだ人達に間違った考えを伝えているのではないか、と大変悩み、結果当たり障りのないエントリーばかり書いている時期もあった。そういう時期があり、それを乗り越え、下記免責条項も各エントリーにつけることによって、もしかすると頂いている影響力をもっと使うきっかけになるのかもしれない。 免責条項:この記事は須田冨士子がこれを書いた時点での意見、思いであり、過去、又将来の意見、思いとは異なることがよくあります。人は育ち、変わるもので、年齢とその時点での時代において意見、思いが時には退化し、時には進化するためです。記事の引用、利用はご自由にして頂いて結構ですが、どうぞこれらをご理解下さい。

三つ子の魂

写真のデータを探していたら、三男のかんたが3歳前後の頃の保育園の日記連絡帳のイメージがあり、ちょっと読んでみた。保育園の様子は保育士さんが、うちでは家での様子をおばあちゃん、夫と私で書いていた。11年前のかんた。人は変わらない、とロジックでは分かってたけれど、性格や得意なこと、苦手なことは全く変わっていないことに驚いた。身体能力が高くて、3歳でよく側転をしていたことは覚えているけれど、お気に入りのバスケットボールで遊んでいるとの姿がストリートバスケを思わせていたという保育士さんのエントリーを読み返して、バスケをしている今の姿が3歳で既にあったんだ、と関心した。皆で分けるものは何でも真っ先にがめる。そして皆が何がなんだかよく分からないうちにさっさと一つずつ配り、残りを自分で好きに食べたり使ったりする。人前にぐいぐい出るけれど、褒められるともの凄く恥ずかしがってぷいっとなる。今更ながら、この子を伸ばすには、認めても、やたらと褒めてはいけないんだなと気がついた。先週多摩大学大学院の紺野先生のゼミで外部講師として参加させて頂き話した際、偉人が若くして面した大きな障害が原動力になる、という話をした。その時、紺野先生は、三つ子の魂百までも、ということも土台だ、と仰っていたことを思い出した。 かんたの中学バスケットボール部の保護者達は、たまたま子どもの成長を楽しんでいる人達が集まっている。今年7月でかんたの代の中学時代の部活は終わる。そのタイミングに合わせて記念に一人ずつの中3と3歳のころを比較するアルバムを作ろうと思っている。自分が信じていることを一生懸命にやり、それぞれの職場で影響力を持つ人間に育ってくれることを願って。 免責条項:この記事は須田冨士子がこれを書いた時点での意見、思いであり、過去、又将来の意見、思いとは異なることがよくあります。人は育ち、変わるもので、年齢とその時点での時代において意見、思いが時には退化し、時には進化するためです。記事の引用、利用はご自由にして頂いて結構ですが、どうぞこれらをご理解下さい。

犠牲者ではなく生存者として

2011年5月21日(土)に、TEDx Tokyoに参加してきました。私はイベントやセミナーは、開催する側として、特に裏方で忙しい仕事をする立場で参加するのは好きですが、イベントのお客様として参加者することは好きではありません。どこかから湧き出てくる行きたくない、という気持ちを抑え、学べるんだ、人と出会えるんだ、と自分に言い聞かせ、毎回気合を入れて参加しています。今回のTEDx Tokyoでも同じような葛藤を乗り越えて当日出向きました。でも今回は、最初から最後まで講演を集中して聞くことができ、自分でも驚きました。こんなことは、ナレッジ・マネジメント・イベント以来の8年ぶりです。きっとイベントのテーマが、今の自分が求めていることとぴったり合っていたのでしょう。「未知への扉」。日本社会で何が起こっているのか。大きな流れの真最中に私がいて、家族がいて、友人や同僚がいる。私は自分の進んでいる道が本当に分かっているのだろうか?どうすれば有意義な結果を出すことができるのだろうか?今回のTEDxTokyoを振り返ってみると、同じような思いを持ちながらも、自分が選択したテーマに取り組み、それらを形にした人達の話しを、同じ空間で同じ空気を共有しながら身体全身で聞いたことが大変重要だったのだと思います。実際その場に居合わせたことで、自分が開いた未知への扉を通り抜け、前へ進んでいるのだと実感できたような気がします。 5月21日を振り返ると、驚くほど多くの「偶然」があったのですが、それは朝8時過ぎに到着して、一人で朝食を食べながら、展示を見ていた時に始まりました。隣に同じようにしている男性がいたので、彼に声をかけてみました。今日はどんな事に期待しています?と。すると、彼は、災害地での活動だね、と応えてくれました。そこで、私がまだ災害地に行って手伝えていないこと、原発で問題が起きた直後、大使館などに通訳としてボランティアしたけれど、何の反応も無く、お役に立てていない、という話をしたところ、彼の災害地活動経験から学んだ事の熱くお話してくれました。話を始めてしばらくしてから改めて自己紹介をし、名刺交換をした時、彼が講演者の一人だと初めて知りました。カルロス・ミランダ・レヴィー (Carlos Miranda Levy)氏と話をしていたのです。 彼のメッセージはこういうものでした:今地震・津波で避難生活を送られている人達は、つい2ヶ月前までは、主婦であり、医者であり、食堂の調理師であり、美容師だったのです。そこに行って、会話をしてあげたり、必要なものを持っていってあげたりすることは凄く大切ですし、やらなければならないことです。でも、例えば大学生がそこに行って炊き出しをしてあげ、時間になったら並んで、というように災害者扱い続けるするべきではありません。大学生よりも、主婦の方がよっぽど美味しいものが作れます。そこに調理師がいたとすると、その人の方が、そこにある素材で栄養を考えてもっと美味しい料理ができるはずです。災害は、生存者を作るのです。犠牲者として接していると、その人達は犠牲者の枠から出ることができなくなります。現地の人達が生計を立てていた仕事に戻れるような援助をしましょう。 今まで多くの有名人達が被災地を訪れ、それがマス・メディアで報道されたおかげで、一般の人たちの支援の気持ちを高めてくれました。2ヶ月少し経って、地味で、長期的な生存者の行き方を支援する時期に入りました。漁師の方々は、魚を恵んでもらうのではなく、船を、漁の道具をもらい、仕事をして活きていきたいように、皆仕事がしたいのです。どうすれば、有意義な活動ができるのだろうか、と考えていた事に、レヴィー氏に光を当てて頂いたような気がします。 イベントの日の最初の出会いがレヴィー氏でしたが、最後の出会いも私にとって、静かでも、大きな希望をくれました。帰る途中、たまたま一緒に会場を出た知り合いの方々と話しながら電車に向かって歩いていると、一人の日本人の50代ぐらいの男性も会場を出て駅方面に歩いているところでした。通常日本人同士だと、道路で歩きながら会話など始めませんが、TEDx Tokyoの影響で、会話が生まれました。ICT会社の方でした。僕は、ずっとICT関係をやってきた。地震の日に、あまりにも多くの利用者のため、携帯電話が全く通じなかった。一番頼りになるはずのものだったのに・・・。その時、この人は今本当に苦しんでいる。今成長の時にいて、深い学び最中にいる、と感じました。この人は、これをきっかけに、きっと携帯電話をより良いものにしてくれるだろう。または新しいコミュニケーションの仕方を見つけてくれるだろう、と思いました。私達は、3・11東日本大地震で「未知への扉」が開き、そこを通り抜けているのだと思います。今回のTEDx Tokyoの講師の方々は、この未知の世界を自分の手で良くしようと考えている人たちです。私達は皆時代の犠牲者ではなく生存者なのですね。 ここには、Levy氏のセミナービデオを埋め込みましたが、TEDx Tokyo 全ての講演が日本語でご覧いただけます。是非、是非ご覧下さい。タイムリーにこのイベントを企画、実施されたTodd Porter and Patrick Newell、そしてTEDx Tokyo関係者全ての皆様に深く感謝します。

第一回発見の会 「けなさない、飾らない」を発見

クライアントのイベントをプロデュースすることは、年に1,2回続けていたが、しばらく自分主催のイベントは開催していなかった。イベントのプロデュースをすると、毎回大きな学びがあるし、それを実行すること自体が好き。なので、また自分主催をスタートした。今回のイベント名は「発見の会」。人が集まると必ず発見があるので、その名前にした。発見するものはそれぞれの人の、その時の状況、興味範囲で異なるので、そこを大切にしたい。また、発見には会話が大切だから、この会は顔の見える、声の聞こえる参加人数にしておくつもり。今年1年続けようと思っている。今回を含め、3,4回は開催する予定を立てている。 第一回は、ご好意でTOTO株式会社のテクニカルセンターで開催させて頂いた。B2Bビジネスのために作られたコミュニケーション、コラボレーションの場。何故TOTO社が良い結果を出しているのか納得できた。徹底的に考えたモノ作り。難しい流行用語で語るのではなく、一般ビジネスマンであれば知っている言葉でコミュニケーションを図る。部外者に話しても差し支え無い範囲で、お話を伺った。社内外のコミュニケーション力も比較的当たり前のことがきちんと出来ていると感じたが、何よりも可視化されている状況商品テストや、その成果の見せ方が大変上手い。一人のTOTOの方が仰っていたことだが、「今年の計は、プライドを捨てること。プライドが無い方が物事進むから。」 私の今回の発見は、TOTO社からご参加頂いたお二人のお話を伺っていて、今まで何となく思っていたことが鮮明に理解できたことだ。お二人は、何年も前からエスノグラフィーを実践し、商品開発に活かして来ているが、気取らず、飾らず、当たり前のことを当たり前にやっている、というような感覚で話していらっしゃった。 ここからちょっと話が飛んでしまうが、ご勘弁を。 よく聞く話は、優秀な人材が会社を良くしていくということを理由に、優れた頭脳と性格、堂々とした学歴と経歴の人に会社に入ってもらうという経営コンサルタント、企業役員、人事の活動。それは間違った考えだということを今言えるようになった。それは、心理学に基づく。人は自分が大切だと思われたいし、自分の価値を認めてもらいたい。企業が素晴らしいビジネス成果を上げる法則として、堂々とした学歴と経歴が最初に来なくてはならないという根拠は歴史的に無い。市場にタイミング良く商品、サービスを出し、それがヒットして、それらの状況に合わせて一生懸命に働いた集団がビジネスの成果を上げる。その過程の中、堂々とした学歴と経歴の人が入り、集団の中の人達と同等に一緒に働き、苦労を共にすれば後から入ってきた人も仲間として受け入れられ、チームワークができる。だが明らかに自分達より「優秀」な人材が後から入ってくると、その前からそこにいた人達は、その人に対して心理的な壁を作る。そして、ありがちなのは、後から入ってきた人も、そこにいる人達がやっていることはレベルが低いと思い、それを変えて自分の思い描いている形にしようとする。市場が求めるものを提供している時にはそれでも会社は栄えるが、会社が変わらなくてはならない時期には、あらゆる問題が起こる。 何故TOTO社のお二人のお話を伺ってここまで思ったかというと、TOTO社のお二人の話の中で、何とか部署が全然分かっていなくて、とか、何とかの人達がこんなことをやるから私達はやりたいことができない、というような話が全く無かったことに気が付いたから。よく言う、「白いところ」に気が付いた。TOTO社のお二人は、自分達のやってきた活動や、それがどのように現在のビジネスに繁栄されているか、というような話を、飾り気無く話された。過去10年間企業のコンサルティングをしてきて、その「けなさない」ところ、「飾り気の無さ」が普段の会話や行動ににじみ出ている企業が順調にビジネスを行っているシグナルだと思うようになった。 当たり前のことを当たり前にできる文化。その文化を育んだ人達に大変興味を持った。本日ご参加頂いた皆様、有難うございました。

厳しい環境が強いリーダーを作る

私がここ5年間ぐらいで何度も読み返した本の中に、元NBAロサンゼルス・レイカーズ監督のPat Riley氏の本と元NCAAバスケットボールUCLA監督のJohn Wooden氏の本がある。コーチングの本は山ほど出回っているが、偉大な実績を残したコーチの言葉の重みに勝るものは無い。 元NBAシカゴ・ブルズでMichael Jordanの監督であり、現在最強チームのLAレイカーズの監督のPhil Jackson氏の本もそろそろ読んでみよう。 Wikipediaなので、オープンに全部信じる訳にはいかないが、Phil Jackson氏の生い立ちや、人生経験は非常に興味深い。正しくお手本通りの勝者運命を辿っているようだ。厳しい親。しつけ。勤勉。他にはけ口がないからスポーツを頑張る。輝かしい花形にはなれなくても、努力と頑張りで人気者になる。心理学、宗教の理解。大きな肉体的な挫折を乗り越える。 Pat Riley氏、John Wooden氏、Phil Jackson氏、同じような人生パターンだ。厳しさ、努力、頑張り、話方、言葉の使い方のマスター。人と同じく、チーム、会社や国も同じようなパターンがあると思う。こう考えると日本に大いなる希望を持つ。私はどちらかというと文化的にアメリカ人だが、だからこそ客観的になれるのだと思う。きっと今の厳しい環境に育てられている日本人若手から素晴らしい、強いリーダーが生まれてくることだろう。楽しみだ。

デザインについてのエッセイ・プロジェクト開始

昨日英語のエントリーで告知したのですが、工業デザインや、ビジネス・ベースのリサーチに10年ほど関わってきているので、それらについてエッセイを書くことにしました。2010年11月19日から12月31日まで、毎日英語、または日本語でこのサイトにエントリーします。経験・実践ベースの記事が、どなたかのお役に立てれば幸いです。

存在(presence)の定義

最近ワークスタイル・ワークプレイス調査で、いくつかの難しい設問をしました。そこで、 そこにいる、(presence)とは、どういうことを意味しているのでしょうか? (会議でメールをしている人は、どこがPresenceなのか?テレビ会議は?) という質問をしたのですが、この設問の回答の一つは次のようなものでした: そこにいるとは、存在意義を果している場合の存在感だと思います。 会議に出席していても何の役にも立たなければそこにはいないと思います。 会議でメールをしている人はそれが役にたっているなら会議の場所に存在していますがくだらないメールをしていたらどこにも存在していないと思います。 はっきりとした存在感だなぁ、と思っていたのですが、ふとこのOscar Hammerstineの曲を思いました: A bell's not a bell 'til you ring it. A song's not a song 'til you sing it. Love in your heart wasn't put there to stay, love isn't love 'til you give it away. 鉦は鳴らすまで鉦じゃない。歌は歌うまで歌じゃない。心の中にある愛はそこだけのものじゃない。愛は与えるまで愛じゃない。 私たちは、誰かのためにならなければ存在しないのかもしれないですね。マズロウの人の欲求段階では、人の求めているものは最終的には自己満足ですが、結局だれかのために何かをしなければ、人は存在しなかったも同様だということなのでしょうか。仕事、仕事と言いながら、ただ自己満足になっていないかと自分に問う機会を頂きました。

サステナビリティ活動の具体的な、測定できる目標設定

最近エントリーがどんどん多くなってきました。ワークプレイス作りからワークスタイル変革、そこからワークスタイルに大いなる影響を与えるコミュニケーションとサステナビリティと一歩づつ原因へと移行してきました。このブログの内容も、6年前からそれに合わせて変化して来ています。このところ海外のコミュニケーション学、サステナビリティ学、これらの実践に関するポータルサイトのようになっていますが、現在日本でまだ一般的に知られていない、または実践されていない内容を紹介し、ご一緒に考え、作って生きたいと思っています。 下記は、ツイッターで私がフォローしているonsustainさんのクリーン・テクノロジーのイノベーションのプレゼン資料です。 Clean-tech & Innovation Learnigns From Silicon Valleyhttp://static.slidesharecdn.com/swf/ssplayer2.swf?doc=learnignsfromthevalley-090331103658-phpapp01&stripped_title=learnigns-from-silicon-valley View more presentations from Oriol Pascual. 具体的な、測定できる目標設定の参考になると思います。 6ページのサンノゼ市の2015年のグリーン・ビジョン(特に5千万平方フィートをグリーン建築にするなど)や、15ページのEBCビジネス環境に関しての具体案では、ワークプレイス、ワークスタイル、サステナビリティが繋がっています。コミュニケーションという観点からは、今やこのように発表された日からほぼ何時間後にプレゼン資料が観れる、ダウンロードできる、またそれを作った人の信憑性をウェブ上の異なるリソースからクロス・チェックできる訳です。多くの人たちが、ウェブでのでっち上げクチコミと、信頼できるクチコミの違いが分かるようになったということもありますね。

ワークライフ、ワークプレイス、コミュニケーションにショッキングな統計

つい先ほど音声無しで見た動画です。Did You Know? (ご存知でしたか?)というタイトルですが、考え方に共鳴しました。知識がボーダレスになっている今、どの国出身の人材が今後社会に大きなインパクトを与えるか、そしてICTが人類の今後を変えることを深く考る必要性がある、という観点から語られています。 現在のブロードバンド・インターネット浸透率が1位の国はバミューダ、米国は19位、日本は22位という面白い統計が観れますが、2010年に必要とされるトップ10の職種は、2004年には存在しなかったものという統計はショッキングです。現在の学生たちには、ほんの数年先に必要とされる職業について教えられない。テクノロジーも、数年後には仕事でどんなICTを使いこなさなければならないか検討もつかない。 私たちは既に、変化できるもの、学び続けられるもののみ生き残れる時代に生きているのでしょうか。 情報源: http://twitter.com/minhaaj

社内コミュニケーション

1月末にはサステナビリティ、2月にはチャリティとワークスタイルと、過去1ヶ月半ほどで3つの異なるトピックで人が集まり意見を交し合うイベントの企画、運営、実行を行いました。その合間に、社内コミュニケーション・プロジェクトに4件携わりました。こうやって改めて振り返ってみると、自分の仕事がオフィス空間という限られた場作りから、多次元の場作りに移行しきったと感じます。 場作りとは、深いコミュニケーションを作る事だと思います。現在は、社内コミュニケーションが問題になっているという企業が後を絶ちませんが、社内コミュニケーションを改革するには、ビジネスとして社外との繋がりを理解しなければなりません。トピックに興味のある人たちだけが集まるイベントを最初から最後まで見届けるプロジェクトをこなしていくうちに、そのように考えるようになりました。 2月末に開催した「ワールド・ワイド・ニュー・ワークスタイル・コンファレンス」のシーンはこちらからご覧頂けます:  ビデオ 写真集

社員を強くする、弱くする

友人のMoriwakiさんが、宜しければこの本読みませんか?と言って私の目の前に、『奇跡のリンゴ』を出しました。ここなんですけど、と言ってページの角が折り曲げてある所を開いて読んでくれました: 自然は細切れになど出来ない。それは、木村があのドングリの木の根元で悟った重要な真理だった。自然の中に、孤立して生きている命など存在しない。自然をどれだけ精緻に分析しても、人はリンゴひとつ想像することは出来ないのだ。バラバラに切り離すのではなく、ひとつのつながりとして理解すること。科学者がひとつひとつの部品にまで分解してしまった自然ではなく、無数の命がつながり合い絡み合って存在している。生きた自然の全体と向き合うのが百姓の仕事なのだ。 Moriwakiさんは有名大学を卒業した高学歴の研究者です。有名企業の研究者として働いていながら、もっと全体的に影響のある有意義な事をしたいと以前から言っていた事をまた思い出しました。 借りた本をすぐに読んでみて、一気に読み終わったのですが、1週間前に読んだのに、まだ何度も読み返しながら内容を消化しています。深い、深い内容です。 私の時系列的リアクションとしては: とにかく木村秋則さんの人生に感動。 著者のエピローグに反発。私自分がいつも突っ走った結論を出すから。人は、自分のイヤな部分に似ているところを持っている他の人に出会うと極端に嫌うと思う。 著者の感情的な所が見える文章に反発しながらも、木村さんの生き方、周りの生き方、自然の中のものの関係について考える。 木村さんも凄いけど、やっぱり周りも同じぐらい凄いと思う。一緒に生きた家族。木村さんは最後に探していたものを見つけたけれど、子ども達は自分たちの育った環境と和解することがまた凄い道だと思う。同じ地域のリンゴ農家の人たちの心境。自分たちは間違っているのか?そんなことはないはず、という思いを持ちながら生きているのでは。木村さんが有名になればなるほど、苦しいのでは。 リンゴの木も本当に頑張ったと思う。例えば、ある程度普通に育った子ども達が、なんらかの理由で親がいなくなったり、再婚したりで全く違った育て方をする親に育てられることになった、といった感じ。お菓子食べ放題、栄養満点の食べ物と、ちょっとの運動でラクして考えないでいたれりつくせりで育ってきた子ども達が、いきなりスパルタの自然環境に放り出されたような。親は最初は自分の目的のために子ども達を自然体にさせようとしていたけれど、子ども達の反応に苦しみ、親も子ども達も一緒に苦しみ、成長したような。 ビジネスの研究、開発、科学的な手法では、例えば全部のリンゴの木を一挙に苦しめるのではなく、数本づつ色々なテストして、解決案を出していったかもしれない。ロジックでは、そうすることが一番痛みが少なく、早く解決案を出せると考えられているけれど、多分本当に結果を出すためにには、木村さんみたいに全部賭けてしまう事が必要なんじゃないかと思う。逃げ道があると、人間そちらに行ってしまうもの。人は根本的には弱いから。だから追い込まれた時本当に強くなれる。でもそれも賭け。 無農薬のリンゴを作って、儲けようとしないというのは、日本人のキャラだと思った。例えばアメリカのサクセス・ストーリーだったら、そこで儲かるビジネスをスタートアップして、より多くの人たちに無農薬のリンゴが行渡るシステムを作る。世界的に考えると、儲かるビジネスほど沢山の人を本気にさせるものは無いから。だからフランチャイズ・システムが上手く行くわけで。 欲の無いことは美徳とされているけれど、自然の法則から言っても、欲の無いものよりは、欲のあるもののほうが繁栄し、生き延びる。無農薬のリンゴと、その無農薬野菜、フルーツ栽培の手法をもっとも効率良く広めるビジネスは無いものか。 自然のサイクルの話で、数年間は、リンゴ農園で毎年違った虫や植物が繁栄したとあった。今のグローバル経済状況も農薬漬けになっていた畑で農薬が効かなくなってきて、それをどう制御するのかで混乱しているのと同じなのだろう。 自然に生きることは、常に状況を見極めて判断し、アクションを起こすこと。自分の健康も、家族を育てることも、ビジネスを行うことも同じ。子どもを強くする、弱くする。社員を強くする、弱くする。 ビジネス・コンサルって、殆どが農園に農薬ばらまいているのと同じ。 本で、害虫は虫眼鏡でみると温厚な顔、益虫は悪者の怪獣みたいな顔とい木村さんは言っていたが、企業の中ではどうなんだろうか? リンゴの木の土から上ばかり見ていて、根っこの部分を考えていなかったから、弱っているリンゴの木の役に立つことをしていなかったと木村さんは言っている。企業もそう。10年ほど前、ナレッジ・マネジメントや、知的資産がはやっていた時、現在の大きなオフィスビル、沢山の社員は、過去の企業の努力を見ているので、将来の企業のカタチは、見えない土の中の根っこに養分が十分に行渡っているか、根っこが育てる状態にあるかにかかっている、というのを覚えている。 自然観察することが、企業の持続性、人の働く一生に一番有意義だと思った。 子どもに声を出して読んでやっている。楽しんで聞いてくれるから嬉しい。 私はビジネスの百姓でありたい。 日本語のウェブで自然栽培や、無農薬について検索すると、がっくし。何ページも、何ページも感激した!というたぐいのサイトのリストはあるものの、具体的なノウハウ伝授で分かりやすいサイトは無し。この本を買えば!とかいうのはいくらでもありますが。テクノロジー関係だったりはいくらでもウェブで知識を得ることができるのに。日本でのインターネットの価値ってまだこんなものなんですね。 まだまだこの本の内容を考え続けていくでしょう。紹介して下さったMoriwakiさんに感謝です!