昨日の少年の件が頭にチラついては離れ、どんよりしては少年を思い出し、悪人ってなんだろう、悪人じゃなくて病気とかなんだろうな、とかで自分を納得させているけど、もうとにかく「生きる」に落差がありすぎる。これが、現状。もっと目を見開け。http://t.co/AaPQNKUcCh
— 土屋アソビ (@wtbw) 2015, 9月 4
ツイッター名、土屋アソビ(@wtbw)さんは2009年1月からフォローさせて頂いている。私は、彼女を天才だと思っている。たまにツイッターからのフォローしている人の記事のお知らせメールが入って来る。今日そんなメールが入ってきたので、気になってリンクをクリックしてみたら、この土屋さんのツイートだった。記事を読み、記事に対するコメントも2,3読んだ。
土屋さんが書いた事に共感した。私は自分の感情的になるところがイヤでイヤで、論理的になりたいと思い、ここ数年間大学で心理学を勉強してきた。心理学だけではなく、学術的な説明だと、人は持って生まれた脳の反応と、母親の胎内まで遡る育った環境、経験と、社会情勢の組み合わせで形成されていく。また、自然界では、確率的に、良い方向にも悪い方向にも突然変異というものが必ず起こる。だから「生きる」に落差がありすぎる。目を見開くと、今まで良いと思っていたことが悪いことだったり、更に視野を広げてよく観てみると、その状況が再度反転したりする。「かわいそう」と思って情けをかけることが人を弱くすることが多い。「かわいそう」と思って情けをかけたことが人を救い、その人がまた多くの人を救うこともある。
誰か社会的な過ちを犯した人の過去に遡れば、いくらでも非難したくなる過ちの根拠となる人、責任となる人がいる。でもその人たちも皆回りに根拠となる人、責任となる人がいる。ある程度誰がどうだったからという真実を知る事は有効だと思う。でも母親は、現時点では法律では裁かれてはいない。祖父母を殺害した罪で裁かれるのは少年だ。この時点で、少年の本当の人生が始まったのだと思う。暗く、寒い谷のどん底に突き落とされた。今見えるのは、這い上がった先にある険しい山だけ。それを登るのか。谷の底でうずくまっていても辛く、這い上がろうとしても、どこか途中で力尽きて落ちてしまう確率の方が高い。過去にはどん底から険しい山の頂上まで這い上がった人たちもいることも忘れてはならないと思う。
私個人の価値観で考えると、少年が這い上がろうと決心したら、それ事体で少年は救われていると思う。自分を本当に救えるのは自分だけ。人生の成功も失敗も真に存在するのは彼の心の中だけ。もしも無罪が言い渡されて、かわいそうにと言われ、衣食住が満たされても、少年はいつまでも母を想い、殺害は仕方が無いことだったと思い続けていたら、彼は人としての幸せを知らないのだと思う。
私の大好きなペンシルバニア州立大学のクレゲノウ物理教授が言った言葉を忘れられない。「宇宙が誕生した時、同時に無数の星が生まれました。そして、私達は何十億光年もの後、その星達と同じ物質を持ってこの世に生まれてきたのです。」 私達は、この小さな地球で生きていながらも、それぞれ異なる文化や価値観を持って生きている。だからこそ、裁かれても、虐げられても、辛くても、自分の価値観を軸に生きていく事が生きる意味だと思う。